仮説の貧弱を嘆く [つぶやき]

日本の古代エジプトの専門家は、「英語はもちろん、フランス語、ドイツ語、イタリア語の文献を読み、現地エジプト人との会話、そしてヒエログリフも読めなくてはならない」みたいなことをよく言うようだが、まさにそこに盲点がある。

「そのどこが悪い!」みたいなところ、反論などできそうもないところにこそ、盲点がある。

本来、ピラミッドなどは他の分野が羨むほどの知名度であり、学びたいという人も多いのだが、徒弟制度でやってきた人たちから見ると、彼らは愚かなミーハーにしか見えないようだ。


他言語ができれば、より研究が深まり、素晴らしい経験になるだろうから…みんなそう言うだろう。だが、結果的には、古代エジプト研究へのアクセスのハードルを上げ、険しい道のりを提示することで、ふるいにかける効果として働いていることも確かだ。


だから、言語はできるが、徒弟制度に順応した人ばかりが残る。

ボスたちの論文には詳しいが、「ピラミッドはこう造られたと考えます」と言える人間はいない。

言語はつまり、論文を読むため、発掘を指揮するため、他の研究者とコミュニケーションとるためだが、本当にそれが、古代エジプト考古学の基礎なのだろうか。


「考えること」


は、どこへ行ったのだ。

私には不思議でたまらない。なぜ古代エジプトを専門に時を過ごしてきて、実はピラミッドを避けて通るのか。


なぜ「わからないことをわからないと言うのも科学的態度」といいながら、「でも、自分はこうなんじゃないかとは思っている」という話が出ないのか。

掘って調べてほぼ間違いないことが確認されてから、「実はこうでした」。

私が不思議なのは、よくそれでいられるなあということである。例えば「なぜ重量軽減の間の石材が一面だけ荒削りなのか」みたいなことで、一週間考え続けたりせず、よくいられるものだ。


いや、もっと細かいことに興味があるなら別にいいわけだが、例えば土器をみて交易ルート考えるとか、別にいいわけだが、なんでピラミッド分かったふうな態度だったり、「ピラミッドやるからにはね」みたく偉そうなのだろう。あなたの研究対象ではないでしょうに。対象ならば、ピラミッドどうやって造ったか位は、当然数年考え続けたわけだろう。しかし、何も見えてこない。結局、自分の仮説がないわけだ。

外国のことだから論文大事なのはわかるが、あまりにも仮説が貧弱。だからトンデモ本が出るのだ。


nice!(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。